ゆっくりするブログ

最近SNS中毒になっていたのでゆっくりしようと思って。

自己犠牲を好む文化

自己犠牲を好む文化はトータル的に考えて本当に誰も幸せにしないなあと最近感じる。

まあ、フィクションの中でならいいと思うけど、結局フィクションでその自己犠牲のものに感動したら実世界にも影響は出るよねって言う。

本当によくないと思うのが、頑張る=自己犠牲の図式ができてしまっている事だと思う。これは逆にもなり得るから。すなわち、自己を犠牲にしている=頑張っているになってしまう面があると思う。これは全く違う。

ちゃんとしたやり方というのは、頑張るけど自分は犠牲にしないやり方。頑張ってもらっているけど、その人を犠牲にしていないやり方。これが賢いし、目指す方向だと思う。それを実現している人は本当に頭がいいと思うし、尊敬する。

逆に一番尊敬できないのは自分を犠牲にしているだけで、何も頑張っていない人。頑張ってもいないし、自分も犠牲にしていない人の方がまだいいと思う。(周りを追い込む危険が無いから)

そうなってしまう文化的土壌があると思う。しかしそれをビジネスに持ち込んでしまうと何かが崩壊すると思う。ビジネスというのは非人間的なものだし、人間味のある感性が通用する世界ではない。

と、ここまで自己犠牲をdisってきたが、そういう僕は自己犠牲な物語で泣けるクチである。破滅に向かっていく人を指差して、「バカだな」と言うほど割り切れた人間ではないのである。

やっぱりここで逆シャアの話になってしまうが、(ネタバレなので見ていない人は逆シャアを観てから続きを読んでね)

作品の最後でシャアが放ったアクシズ(巨大隕石)が地球に向かっていく。それが地球に落ちると地球がとんでもない事になる(核の冬が来る)のである。アムロは隕石にとりついて必死に押し返そうとするが隕石は地球に向かい続ける。もうだめだ。その時、その場にいた人間が、次々に隕石に体当たりして行く。死ぬのが分かっているのに身体(搭乗しているモビルスーツで)でなんとか隕石を止めようとする。しかも、敵味方関係なく。その姿に泣けるのである。

まあここで、敵軍が隕石を止めようとするのに「じゃあ最初からアクシズ落としの作戦に参加するなよ」というのは野暮である。彼らにも事情があるだろうし、アクシズが実際地球に落ちようとしているのを見て、アムロがそれを止めようとしているのを見て、止めなきゃと思ったのだろう。

そこで、自分が一番好きなシーンがある。敵モビルスーツが隕石を止めようとして隕石に飛びついたときに、アムロがこう言う。

「そんな、ギラ・ドーガまで!」

このギラ・ドーガというのは敵モビルスーツの名前なんだけど、ここで初めて出てくる。そう、ここまで誰もギラ・ドーガと言ってないし、誰も聞いてないのだ。その意味不明の単語を、このクライマックスの一番泣けるシーンでブチ込んでくる。このセンスが本当にすごいと思う。富野監督は本当の天才なんだという事がよくわかる。

「そんな、ギラ・ドーガまで!」

言葉自体は全く訳が分からないが、このクライマックスの状況によって台詞の意味を完全に説明してしまっている。説明ゼリフという言葉があるが、このシーンは逆、つまり状況がセリフを説明してしまっているのだ。

そしてそのまま結果がどうなったかも分からずに「アムロ・レイ 古谷 徹  シャア・アズナブル 池田 秀一」の文字が出てくる。これはエンディングを意味しているとすぐ分かるのだが、この終わらせ方以外無いと思ってしまう。そして2度と二人は姿を現さないのだ・・・。

アムロ・レイ 古谷 徹  シャア・アズナブル 池田 秀一」

この文字で物語を語りあげてしまうのである。とんでもない演出だと思う。逆シャアは死ぬまでにあと何回観るか分からない。